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同じような症状のひとと関わって、話を聞いたり聞いてもらったりして、考え方の幅を広げるのが、カウンセリングの予約がとれない今、一番有効な治療法でわたしにできることなんだろう。現代はSNSがあるのだから、他人と知り合うのは以前よりよっぽど簡単だ。わたしにとって、コンプレックスの塊である顔や声を晒す必要がない。ただメールアドレスを取得して、それっぽいIDとアイコンを考えたり探したりして、アカウントを作成すればいい。そしてそれは、わざわざ嫌いなひと(これから嫌いになりそうなひとも含まれている)のアカウントを見に行っては、勝手に気分を悪くして帰ってきて悪口を言うよりもずっと簡単なことだ。でも、そんな簡単なことすらできずにいる。疲れているからじゃない。ひとと傷を共有しあうことに意味を見出せない。SNS上の虚構なのか本当なのかわからない言葉のかけらを拾いあって、なんとなく分かり合えたようになって、「この苦しみを抱えているのは自分だけじゃないんだ」「同じように悩んでる人がこんなにいるんだ」と思うことが、至極真っ当ないい意味での他人の使い方であり、慰められ方であるのはわかっている。わかっているのだけれど、きっと自分がそうできないだろうということも、痛いくらいにわかる。優しい言葉こそかけてくれさえするものの、実用的な役には何にも立ってくれないひとと時間を割いて関わって、慰めを得られたって、それが何になるっていうんだろう。いっときでも自分の気持ちが休まればそれでいいのか。甘い夢から覚めたあと、追ってくる現実が怖くないのか。言葉を選ばずに言ってしまえば、こんな人にこんなこと言われて何になるの、とか、この人こんな頭悪くて世間知らずで大丈夫なの、とか、こんなブスなのによくこんなこと恥ずかしげもなく言えるね、とか、そんなひどい言葉が自分の中で飛び交う気がする。
今だって、もうすでに飛び交いまくっている。
 


できることよりできないことの方が増えていくのが怖い。会社に行って、泣かないようにしながら席に座り、キーボードを叩いているのがやっと。わたしをまだ明朗闊達で天然ボケ入ったちょっと間抜けなところがある若い女の子扱いしてくるひとに、ほどほどの挨拶とボケを返しながら微笑みかけるのがしんどい。わたしは嘘つきだし、他人を傷つけることに良心の呵責を感じない人間だけれど、言葉にだけは真摯でありたいと思っている。それなのに、文章さえ、短い言葉の羅列でさえずっと書く気になれなかった。かろうじて文章を書く気持ちにさせてくれるひとのブログや本の感想と構築記事だけは読める。そのおかげで、やっと書けるようにはなってきたはず、そして書いているのがこの文章。ストレスの根源が仕事にあるのはわかっているけれど、休むことも辞めることも許されない。気持ち的な意味でもそうだし、収入という意味でも、それはそう。他に収入を宛にできる家族がいない場合、みんなどうやって休んでるんだろう。手当のことも調べたけれど、もらえるまでにこんなに時間があいてしまうなら、家賃や光熱費や携帯代や奨学金やその他諸々の支払いに関わるお金は、いったいどうやって工面すればいいのか。たとえ休んだとしてもそれが気になって、ちっとも気が休まらないような気がする。実家に頼ったり、伴侶に頼ったり、そんなことができるならそもそも、こんなに疲れるほど働いてなんかいない。

 

疲れた。とにかく疲れた。でも面接に行くことはできる。ハキハキ喋って、好印象を持ってもらう程度には明るく振る舞うことはできる。文章だってきっと同じはず。わたしとしての文章は書けなくても、わたしに似た女の子の文章なら書けるかもしれない。新しい場所と名前をまた増やすのがいいのかしら。